湊川隧道とは

世代を超えて受け継ぐ、
神戸の近代化産業遺産

「湊川隧道」は、湊川付け替え工事で
一九〇一年に誕生しました。
現在のような機械や電気がない時代、
人力での大変な労力を要したこの工事は、
三年九ヶ月をかけて完成しました。

しかし、新湊川と湊川隧道は、
阪神・淡路大震災で大きな被害を受けたため、
河川改良工事が行われて新湊川トンネルが建設され、
湊川隧道はちょうど百年目となる二〇〇〇年に
河川としての役割を終えました。

その後、湊川隧道は、貴重な近代土木遺産であることが
高く評価され、保存することが決まりました。
湊川隧道は、二〇一一年に土木学会選奨土木遺産に、
二〇一九年には国登録有形文化財に登録され、
地域と深く結びついた明治期の神戸を代表する
近代化産業遺産として、保存・活用の取り組みが
続けられています。

歴 史

History

本初の河川トンネルの誕生

 神戸市を流れる湊川は、六甲山系から大阪湾へ注ぐ川で、かつては、神戸と兵庫の市街地の間を流れていました。
この湊川は、上流から押し流された土砂堆積で市街地よりも堤防の方が高い「天井川」となり、洪水時には甚大な被害をもたらしていました。
さらに、この堤防が神戸と兵庫の町を分断し、東西方向の往来が不便で経済的にも悪影響がありました。また、神戸港は1868年の開港以来、国際港として発展途上でしたが、湊川から流出する土砂が神戸港を埋没させるおそれがあったため、港湾機能の維持が大きな課題でした。
1896年の台風で堤防が決壊し、死者38名を出す大災害が発生したことを契機に、改修工事の必要性が急速に高まりました。

 1897年、地元の事業家や大阪の実業家、藤田伝三郎らが「湊川改修株式会社」を設立し、湊川の付け替え工事が始まります。当初の計画では会下山の南に新しい川を開削する案でしたが、住民の反対で会下山の下にトンネルを通す計画に変更されました。
こうして誕生した「湊川隧道」は、近代土木技術を用いた日本初の河川トンネルで、全長約600m、幅7.3m、高さ7.6m、レンガと花崗岩を用いた馬蹄形の構造となっています。
 当時のトンネル工事は、十分な地質調査はなく、施工は、トロッコやモッコ、ノミやツルハシを使った人力による大変な作業でしたが、レンガと石材で作られた湊川隧道は今日まで河川構造物としての機能を十分に果たしてきました。湊川隧道の坑口は、上流側は古典様式、下流側はルネサンス様式と2種類のデザインで、扁額の花崗岩には「湊川」「天長地久」と刻まれています。

工事中の下流側坑門(提供:大成建設)
湊川隧道竣工の様子
築造直後の下流側坑門
昭和60年頃の下流側坑門
化的価値と保存

 阪神・淡路大震災で、湊川隧道や新湊川の護岸が損傷したため、河道を拡大する改良復旧工事が行われました。2000年に新湊川トンネルが完成し、100年に渡って水を流し続けてきた湊川隧道は、文化財として保存・公開されています。
 湊川隧道の公開は、2001年に発足した「湊川隧道保存友の会」が担っており、見学者への案内、説明を行っています。また、定期一般公開では、県外や海外からの来訪者も増えており、歴史的景観を有する近代土木遺産として注目をされています。

目は新湊川トンネルへ

 1901年に完成した湊川隧道は、新湊川トンネルの建設により、2000年12月、約100年に渡る河川トンネルとしての役目を終えました。新湊川トンネルの坑門には、再び湊川隧道の扁額が掲げられています。坑門の復旧にあたっては、呑口坑門は昭和初期の増築時のイメージを、吐口坑門は明治期の完成当時のイメージをデザインし、先人の遺業を後世に伝えています。

新湊川隧道トンネル
工事中の湊川隧道
新湊川トンネルの
下流側坑門
湊川隧道の歴史・文献
Literature
湊川隧道の歴史・文献
近代化と地域社会の発展を築いた歴史を、
現代に語り継ぐ